差異をたのしむ

ファッションには関心があったが,ミニマリズムに共鳴して随分と処分した.今持っているのは100着以内.少ない方ではないだろう.鞄や靴もだいぶ整理したが,高級な良い物を頂いたり中古で持っていて,一点豪華主義は正義だと思う.FENDIの革鞄やアローズのベージュのスタンスミスとクラークスのワラビーを買ってから,もうだいぶ何も買っていない.服もUNIQLOやcoenやH&Mでシーズンが終わる頃に気に入ったモデルをセールで安く買いだめするほかは買っていない.でも,それらのお店やブランドにこだわりはない.

文章もそうだが,差異を楽しむために,やっているのだと思う.銭湯で気づいたが,人間,裸になればそう違いがあるものではない.みんな同じと言ってしまえばそう言える.だからこそ,個人という概念は素晴らしかったのだ.社会が個人を基調として設計された時から,自由が確保された(かのように見える)人生を過ごせるようになり,幸せが自由な時間に紐づいて,ひとりの時間まで楽しめる方向に進んだのだ.

しかし,ファッションはどうやら良い物を持ってしまえばそれで満足できるものらしい.私はそうである.7万円する革鞄によって,鞄を新しく持とうとする気持ちが綺麗に消えた.こだわりがないのだろう.同じことで,服もスーツも靴もアクセサリも香水も,別に新しいものいらない状態に陥って,同じものを使い続けようとの形勢に入った.良い物によって充分人と違うことが満たされるので,それで満足なのだ.そしてむしろ,その革鞄さえ,いずれ近いうち売り,もっと安価なものを好んで使うようになるだろう.

人ってそう違わない.だから違いを楽しむのだ.違うことを悩むのは本筋じゃない.同じだと認識すれば悩みが反転するから,銭湯に行って自分と同じような裸を見る時間を過ごせばいい.そうすれば,人間皆同じようなものという現実がつまらなく映る.それだから,違おうと思える,つまり生きていることを,個人でこの社会に生きていることを,楽しめるように意識が向かうのだろう.

本日の積読

「自由論」J. S. ミル著

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