初めに言葉があった。では、どこまでが言葉なのか、という問いは、あまり語られない。言葉の定義、その意味する範囲についてである。わたしは現在のデザイン論を一定水準で学んだ人間なので、言葉はいわゆる文字や声などに囚われない、物の形、つまり構造および機能や占める時空間やその余白をも含むことが常識的である。つまり、この世界に存在する全てが言語である、としている。それだけでなく、デザインの言語、という場合は、実世界の存在ばかりでなく、脳内あるいは電子的な世界に浮遊漂泊する考えないし思想まで、言語であるとされる。要するに、人間が知覚しうるあらゆる物事が、言語である。とするのが、わたしには自然である。つまり、言葉は万物である。
次に、言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言は初めに神と共にあった。ここで、神と言葉は初めは別の存在であって、言葉と神のどちらが先にあったかは問わないにせよ、「この言」=「言葉は神であった」によって、神は言葉と等しい存在となって、全てのものをつくった、と考えられる。言葉は神と等しい、というのは事実であって、今でもそうである。全ての物事は神であることを、神が宿る、と表すのはそれであろう。そして、できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。という「この言」=「できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」という事実に、命があることも、また事実である。
そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれ(光)に勝たなかった。全ての物事が神によってできたという事実によって命があり、この命は人にとっての光である。この光とは、闇の中であっても闇が優勢を譲る存在であるところから、人を人たらしめる、それは広漠な宇宙の中であっても、荒寥たる絶望の中であっても、命は人が人であることを闇の撤退性によって保証する。明らかに、闇は光でない別の存在であり、両者は混じらない。そして、闇は光に永久の勝利を譲るのである。いつだって闇は光に負ける。その光とは、人にとっては、命なのである。そして、その命を表す事実とは、全てのものが神によって存在しているという事実である。光は輝きによって存在を明らかにするが、闇はただ去退に徹するだけである。
しかし、言葉の性質とはなんであろう。空間を占めるか、時間を費やして、存在しようとするものであろう。要するに、何もない闇において、闇を分けることによって存在するようになるものである。これはしかし、初めに言葉があったのだから、言葉が闇からできた意味では決してない。むしろ、闇があったとしても、闇は存在しうるものでない。闇はあることがない。だから、言葉が分けることで物事はあることができる。つまり、逆に、闇は分かれないのである。
分かれすぎた世界、すなわち、言葉に満ちた世界は、存在の溢れた世界、光が一層強く存在できる世界である。しかし、その分かれすぎている状態をよく思わない一群もある。それは闇の属性を持つだろう。分かれない世界を志向するのだから。それは、分けない、分かれることを厭う、そうして結局分からないを標榜する、闇の標語である。サタンの性質とは端的にこれであろう。初めにあった分かれを、見なさないのであれば、神を見ないことである。要するに、より細かく美しく分けなくてもいいので、そもそも分かれないことを志向するのであれば、サタンに近づいていると判断して良いだろう。分かれるほうが命の方向であり、分かれないほうは闇の方角である。
そこで考えなくてはならない。直観や感性のような、分けない理解の仕方についてである。感性は、分ける感性もあれば、分けない感性も確かにある。直観にも、見分ける直観もあれば、見分けない直観もある。要するに、直観や感性の理解は、光にも導かれうるし、闇へも連行されうる。だから、知性がなくてはならない、と昔の人は言った。この知性とは、精神の意味であり、日本語では聖霊とも訳される。聖霊ないし精神の伴わない直観や感性は、危ういのである。良識とは、闇でなく光の方角へ向こうとする知性のことである。
これらによって推測がつくと思われる、ある提題がある。日本では、分けないことに重きが置かれ、そこに知性がなければならない現実を、あまりに軽んじ忘れてはいないか、ということだ。世界を分けないとは、神を見ないことであるのに、分けた世界を分けない透膜で見るべきものを、分けない視界で見るばかりを奨めてはいないか、ということだ。分けてばかりが理解である、という経験値は、時に悲しい性質を物語るように感じてしまうからこそ、分けることを厭ってしまうのだろう。でも、そうではない。分けない世界とは、神から離れ去っている世界だ。命から遠ざかるだけの徒労の旅に過ぎないのだ。
そうであるのに、日本で著名な、教科書に載っている人物の著作が、前提もなく読まれている。語れるということは、すでに分けているから成せるのである。しかし、その分けていることを見ずに、分けないことが大事であるかのように見聞してしまうから、何も分からないのではあるまいか。そして、その著名な人物本人の録音などを聞いていると、本人自身が分けないで聞いている著者が存在していたように思う。分けないという性質が、神に叛する人の罪を示すかのように、どの人にも備わってしまっているように思われる。わたしだって多くについて分けないでいる。理解が分けていくことにすぎない、と言ったところで、言葉は分けるのだから、万物は分けて命になっているのだから、人であるには分けていくだけでも良いはずなのに、分けない地点が人には内在する。その謎を、日本人とは何であるか、という問いに託して探究していくことにしよう。