分けると聞くと、2つに分けることを連想する。0か1か、改め、0と1に分ける方法である。この方式では、0の群と1の群に分けることができる。そして、両者は互いに整理され、配列し、1次元のデータを成すことができる。要するにこれがデジタルである。一方、対置するアナログはといえば、連続した変化を表す方式で、一見なにも分けられていないように思える。しかし、実際は時間を分けている。連続するとは時刻をつなげているのであり、変化とは時間で微積分できるから認識できるのだ。そう考えると、デジタルはなにを分けているかといえば、空間を分けているのである。これは白、こちらは黒、と分けられるのは、白も黒も空間を占めているからである。0と1を分けて保存するHDDを見てみても、そのセクタに保存された0ないし1のビットは、揮発したり破砕したりしない限り、永久にそのビットであろう。時間に関わらず分かれる、これがデジタルである。
では、言葉はなにを分けるだろうか。空間を分けると考えるのは容易であろう。認識される物事の大半は、空間を一定の範囲で占める。数学が集合論で基礎付けられうるように、計算もその本質が範囲の確定であるように、人の認識する物事の多くは、デジタルで分かれているだろうと推測される。よって、言葉がデジタルで分ける、と考えることは、特に現代にあっては誰もが容易に連想できる思想だろう。そういう方面では、現代は加速して分かれすぎている。
一方、言葉がアナログで分けることはあるだろうか。ある。しかも、たくさんある。連続した変化を時間で分ける言葉も、存在している。それは一見、単なる記号に見えるために、デジタルで分けるものであるように見えることも多いだろう。それは仕方ないことで、認識される物事の大半が空間的なものであるところからくることだ。しかし、その言葉の本質を知ることによって、その言葉がアナログで分ける性質のものであることが、理解される。例に挙げると、微積分、化学反応式、ファインマンダイアグラム、宇宙創成図、詩情、展示会場の作品群、楽典、波形など。たくさんある。それらは文字や記号の体を多くの場合はとるが、その本来の目的は時間で分けることであり、時間の分け方を示すために活用されている。
では、なぜアナログで分けなくてはならないのか。人の理解の形式には、空間的な理解と時間的な理解の2種類がある、とカントは述べた。要するに、後者の時間的な理解が、聖霊ないし人の精神、およびそれに付随する記憶や自己意識や意味など、連続すると思わされる分け方を、人に与え覚まさせてくれるので、人は必要とするのである。人の身体は、空間を占めるので、デジタルで分けられる。しかし、土塊 humus に聖霊の風が吹いて人と成ったように、土的肉体と風的精神の両質が、人を構成する。土であること human beings とは、ただ土があるだけでなく、そこに土として存在していることであり、空間的にだけでなく、時間的に存在しているがゆえに、空間によっても時間によっても分けられるのである。そして、これは万物にとっても、両者の方式で分けられることを意味している。
神の定めたレシピによれば、人は空間的に分けられなくなれば、この世で存在できなくなる。また、時間的に分けられなくなれば、この世に存在する意味が消失する。前者は、わたしでいる意味がなくなる。後者はわたしである意味がなくなる。要するに、神は両者の世話をするために、分けることを奨めるのである。光に闇を従わせることによって。分けられなくなった状態とは、存在の危機なのである。分けることによって、存在を回復するのである。そして、よく起こることだが、空間的に分けることが過剰になると、時間をも空間的に分けようとし、時間的に分けることが過剰になると、空間をも時間的に分けようとしがちである。時間を分刻みで可視化し、予定を緊々に詰める、そうして、別にこれを実行するのがわたしでなくていいことに思い至る。これは前者の例である。また、未来に想いを馳せるか、過去に自らを同化させるかして、その遠い将来や太古からの潮流に身を任せ、この世は一時のもの、わたしはその一石の波紋、と書き遺し、海などで一生を終えるのは後者の例である。いずれも、分け方の按配が均衡を失った結果、もう一方が呑み込まれるように効力を失った状態である。
いずれの分け方の不均衡も、分からない、ということにつながる。なんでも空間的に分けても、結局どんなものかも分からない。また、なんでも時間的に分けても、連続的なことはなにも分からない。分かる、とは、分け続けられる状態を意味する。どこかで分けられなくなったとき、分からないという感想を伴う。分けられるなら、分かり続けられるだろう。神が世界を分けてつくったのだから、どこまでも分け進んだらいい。しかし、分けられなくなったら、そこで止まるだろう。これは何だ?空間でも時間でもなさそうな何かだろう。これは何だろうか。そうなれば、それが問うことなのである。それが光と闇の分岐点である。それが良識の試される地点なのである。そこで「何なのか」と問うことが知性であり、問わないとすれば分かれない。分かれない中を分けようとすることが、問うことなのである。
分からない、と思うとき、本当になにも見ないで分からないと思うなら、それは無知であるばかりでなく、神を見なくなることであり、現実的に命さえ危うくなるだろう。一方、神を信じて知っており、その上で分からないのであれば、それは探究心の強靭な核の持ち主であることを示す。その人はきっと、何かを残すだろう。そして、分からないことで人が去り、離れ、独りになったとしても、その人は分かることだろう。残したその何かに、それが残っているだろう。土がそこに土であるように。