本日、与党の新総裁が決定した。自衛隊に関する条項変更を持論とする人物である。憲法の改正論議を起こすための選挙だったと、決選投票の2名からして、そうとれる。憲法について勉強しておく人が増えることを望む。憲法前文には、「圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」という文言がある。圧迫と偏狭の実質とは、否定すること、であろう。
人間は誰しも、生まれながらに死ななければならない存在と思われてしまうが、人によって死ななくてはならない存在ではない。ここで人といったのは、他人であり自分でもある。要するに、死ぬことを命じられたり、命を奪われたり、あるいは自死したり、しなくてはならない定めには生まれついていない、ということだ。イエスキリストのように、人々を救うためにこの世に来たか、ジャンヌダルクのような、救う情熱のために命も惜しくなかった人であっても、命が奪われるために生まれついたのではない。両者は命を捨てたけれども、初めから殺されるために生まれたと知っていたら、絶望しないはずがないだろう。
さて、わたしたちは何によってこの社会を作り上げてきたか。概して見れば、人々のエネルギーであろう。そしてそれは性のエネルギーであるとみよう。性のエネルギーは、液体を生み出すためのものばかりでなく、社会を成り立たせているあらゆる文化を作った元である。見てみれば、どんな学問も物語も、広告も建築も音楽も、はたまた犯罪も、性のエネルギーが作った事件である。要するに、人間の命が否定されないものである以上、性のエネルギーが作ったものも、原則では、否定するものでない。原則では、と書いたのは、もし社会が一人で構成されていたら、という条件の下でしか成り立たない、という意味である。
そもそも、否定とは、論理学で記号として登場するものであり、そうでないことでない。A の否定は not A である、それ以外の何ものでもない。つまり、否定とは、単数の否定、単数に対する操作である。わたしは否定できる。わたしのことも否定できる。では、あなたを否定できるか。あなたがたを否定できるか。彼らやその国やその属性を持つすべての人を否定できるか。論理的にはできる。しかし、否定したとて、not という操作をしたまでである。
論理学を少しは理解している人なら、関係も否定できると知っているはずだ。AかつB ということの全体を否定すると、Aでない、または、Bでない、と結果する。例えば、恋に落ちている二人が、わたしとあなたは愛し合っているか、という状態にある時に、急に関係が破綻したら、あなたが愛していなかったか、わたしが愛していなかったか、のどちらかだ。と結論できる。二人とも愛していなかったら、恋に落ちた状態にはならないはずだし、両者が突然同時に恋からさめるものでもあるまい。ということで、論理の規則は、確かに、心の事実関係の推論であっても役立てられる。
ここで気づかれたと思うが、論理的否定とは、物理的なものではない、ということだ。つまり、仮にあなたはいなくなれ、と否定されたとしても、あなたが物理的にいなくならなくても良いのだ。これはわかるべき重要なことだ。あなたがいなくなれ、と否定されても、あなたはそう言われただけである。あなたは何を言ったっていい。どう言い返したって、誰に伝えたって、どのような動きを作り出したっていいのであって、その場所からいなくなる必然はない。例えば、もしあなたが倫理を弁えているなら、その分、あなたが真っ当なことを言えば、いなくなれと言った輩は打ち負けるだろう。悪は正義に負けるのだから。
おそらく、言ったならば、現実において、物理的に何らか、動くだろう。つまり、言葉で世界が幾分か変化するだろう。上の例で、あなたに言ったことで、あなたが自死を選ぶのであれば、あなたが世界で動かしたのは、自分の命を絶つことだけであった。何も生んでいない。あなたは性のエネルギーを発揮し、言葉を投げかけ投げつけ、行動で思い切った作戦を立て、人生を開き直って人類の困難な問題に挑戦することさえできた。でも、あなたはしなかった。何も。論理的に否定されたから、物理的に命を消去した。なんとつまらない人生だったか。
あなたは、死ななければならないと自分に命じた。そう、死ぬようにあなたに命じたのは、あなただったのだ。なぜなら、あなたの存在を否定することができるのは、あなたであるからだ。もしこれを確かめたいのなら、決闘したら良かったではないか。あなたの存在を否定する人が本当にいるか、わかるだろうから。本当にそんな人がいるなら、あなたは殺されるだろう。しかし、その人にはあなたの命を否定するだけの充分な理由があるだろう。それを聞いてからでないと、あなたの苦しみは晴れないだろうに。あなたはなぜ苦しまなくてはならないか、知るために、何か動こうとしたのか。作戦を練ろうともしなかったのか。怨みを残して自分を殺すだけが人生ではないぞ。
そういうわけで、そもそも否定するものでないこの世界のすべてと人々を、あえて否定するのであれば、否定するに相当する理由がある。それは主張や命題であれ、情念や知覚であれ、否定する主には否定する目的がある。否定を多発する人は、それだけ否定する対象へ、強く粘るほどの思いないし理由があるのだ。これはかなり難儀な争議となると予想できる。否定するためだけの人も、いる。それが、圧迫する人、偏狭な人であろう。しかし、人が考える以上、否定という論理操作は、考えを展開する上で不可欠と言っていい。わたしもすでに本稿で何度も否定している。考える人は、誰もが圧迫者になり得るし、偏狭に陥りやすい。
圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めるには、さらに考えを進めて行かなくてはならない。それしかない。否定という操作のあと、もう一度同じものを否定するしかない。結局、否定を除去する方法は、それをもう一度否定することでしかない。そうすれば、性のエネルギーがみなぎり、社会が動き、文化がつくられるだろう。否定の否定は、肯定である。根拠のある肯定である。根拠とはつまり、その否定は否定された、ということである。
しかしながら、それをもう一度否定する時が来る。それはおそらく、人によってはなされない。自らするほか起こらない。なぜなら、人は、その否定が否定されたことで、それを再び否定することが難しくなるからである。再びそれを否定するという問題が、大きな越えなければならない壁に思えて、よほどの確信がなければ、誰もそれに取り組もうとも思わない。ゆえに、二重否定をもう一度否定するのは、自分であり、それは静かに行われる。大概は、自分より大きな存在を見出すことで、それによって自分を再否定することができるようになる。
その再否定の結果、自分は自分になるのだ。自分とは、否定されたことでも、肯定できたものでも、なくて、結局、それらをすべて静かに否定したところに生まれるのだ。そうすれば、否定するものがなくせるのだ。何も否定しない、誰をもどんなものをも否定する必要がない。行動で参加するという手段に限らずとも、関わることができる。慈悲の情を抱いたり、理解したりそうしようと努めたり、道徳を練り上げたりできる。それが自分だ。別に人から否定されても、人に肯定されても、それが何。別に何ともない。そうなる。
圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会には、すでに自分から否定を追い出した人々が多く生きている。自分の存在問題を解決した人々である。その手段や物語はいろいろだろう。でも、すでにそうした人たちが多く住んでいるのが、この国際社会である。その中にあって、あなたはまだ人やものを否定したり、あるいは自分を肯定しようとしたりするのか。地上から永遠に除去されるべき圧迫と偏狭の中に暮らしているのか。なら、あなたはエネルギーで作り出す時が来ている。作り出したものが否定されたとて、称賛されたとて、それを作り出した目的は、あなたが、あなたより大きなもののなかで、あなたを自ら否定することで、あなたになるためなのだ。そうしてあなたは、地上から圧迫と偏狭を、ひとつ、永遠に除去できるのだ。