どうして,押し付けると,人は離れていくのでしょうか.わかりやすいほうから考えます.押し付けられた,と思った時,どんな言葉をかけられたでしょうか.これはこう考えなさい,これはこう見なさい,これはこう動きなさい.このように,物事に対しどのように関係づけ対応するか,という判断を,自分でなく人に,自分の意志に反して判断された,という場合がほとんどであろうと思います.物事の判断を,自分でしたいのです.
というのも,判断を自分でしたくない物事については,いとも簡単に人の判断に従っていませんか.インフルエンサーのおすすめの通りにリンクをクリックして購入する.難しい問題についてはそれらしいことを言っている人の意見に盲従する.自分を理解し癒してくれ元気にさせてくれるブロガーの占いやカウンセリングに予約したり宗教的な教えに入信する.つまり,自分で判断したいことは判断されると押し付けられたと感じ,自分では判断したくもないことは,進んで判断してもらいたがるのです.
人は,感覚的な判断は誤らないものですが,理性的な判断は自分を欺くものです.気に入った洋服は,必要から買った服よりも長く大事に着るものです.好きなことは,しなくてはならないことよりも,楽しいですしずっと続けられるでしょう.要するに,わたしは判断を間違った,と思えることというのは,自分の感覚ではわかりようがないと思えていたことなのではないでしょうか.
つまり逆に言えば,押し付けられたくないことは,自分が感覚でよくわかっている事柄なのです.押し付けた人の感覚より,自分の感覚に従った方が,わたしは判断を誤らない.そう確実に思えるからこそ,判断されたらそれを勝手に判断されたと捉え,押し付けたからあなたには従わない.と判断するのです.
ところで,自分の感覚は,どこまで広がっているでしょうか.自分の生活や美的感覚でしょうか.自分の仕事やその関係周辺でしょうか.国や世界との地球上の関係まで広がっているでしょうか.感覚は経験に由来しますし,ということは知識で練磨し鋭敏堅固にできます.つまり,もし勉強が不足していると,自分の感覚がたとえ今の状況で正確であろうと,それが正しい範囲は,自分だけでは十分見えていないこともあるのです.小規模の企業であれば,関係先と社員の暮らしは,納品先と事業所を往復しているだけで,ある程度わかるでしょう.しかし,大きな組織となれば,社員数もさることながら,ステークホルダー全ての情報など,得られるよしもないでしょう.そこで,一人で判断しきれないことが容易に起こるのです.
もし,若い人で,上司から押し付けられてばかりで,自分の感覚を信じて行動したいのであれば,上司の判断にも一理も二理も認め,読み取るべきではないでしょうか.上司の言葉には,あなたの感覚では植えられようもなかった,上司の個人的経験や長年の知恵が,言葉に明示されてはいないでしょうが,含まれています.それを汲み取る能力は,あなたの感覚を押し広げてくれるでしょう.それも感覚のうちなのですから.
もし,正確にはわからないのであれば,上司やその周りの人に暗にでも直にでも聞いてみたらいいと思います.あるいは,その上司の言葉の背景にある何かが予想がつくのなら,そういった本や情報を,様々な媒体や手段で探してみることをおすすめします.例えば,世代が関係していると薄らでも思えるなら,20世紀の何かに関する個別史や全体史を参照すれば得られる理解は少なくないでしょうし,地域の同年代やそれ以上の先達に話を聞けば,上司本人に聞きにくい事情や状況を,推し量れるようにもなるでしょう.また,上司が病気や離別の経験があるのに,自身にはない場合は,障害を持って生活している人を街でよく観察したり,声をかけて手伝ってみたら,返される反応から考えるところが得られると思いますし,ブログで思いを吐露していたり悩み相談の掲示板を覗いてみて,このような悩みに対しこのような答え方でこの程度何かが軽くなったんだ,とある程度知ることができます.
そうなれば,おそらく,自分では経験もできなかったような感覚で,物事や人や世界を判断できるようになっていると思います.そして,そうした判断を少しずつ試みていくことで,自分の感覚を超えた基準で,人や物事をより広く判断することもできるようになっているのですから,自分の生活や仕事をよりよく判断するのも容易になっているはずです.すなわち,自分の問題はどんどんと軽くなり,人により役立つ別の判断を提供することができるようにもなるのです.
ここまで来ると,あの若い頃の,押し付けられた思いが役に立ちます.こういう感覚のある人には,この判断を差し出すと,離れていくだろう,と大体手に取るようにわかるようになるのです.そうなれば,押し付けず,別の形で関係することを自然と選び,考えるでしょう.なぜなら,きっと押し付けられたと感じたような人は,少なくとも自分と似た,あるいは自分を超えて組織の判断を任せられる可能性のある,有望な人物と見られるわけですから.自分が判断できなくなっても,自分の判断を時代に沿って足したりより練られたものにしてくれる後継者が,目の前に現れたのですから.
そうなれば,あとの仕事は,その人をいかに離れないように,かつ,その人により多くの感覚を仕込むことでありましょう.その人も,自分とは違う生まれ育ちをしていますが,似たような感覚で自ら判断したいと思っています.自分と似た感覚の持ち主は,自分を伝え,自分を継いでくれる人物になれます.ましてや,自分のことをよく理解してくれる人であれば,本人の感覚と自分のそれとを折衷し,より新しい時代にそぐう感覚を形成して判断する人物になってくれるでしょう.そうなれば,自分の判断も確かだったな,と述懐できる晩年を落ち着いて過ごせるのであります.