現代にあって、もっともやりにくい行為のひとつが、批判すること、であろうと思います。というのも、批判された側が、なぜ何のために、わたしの何が批判されたのか、理解も成り立ちにくい上、批判する側も、おそらく何のために批判するのか、愛をわきまえていない場合があろうかと思われるからです。要するに、前者の場合は、結果を急ぎすぎており、後者の場合は十分に理解を踏まえていない場合があるということだと思います。いずれも、情報が社会や生活に氾濫した結果だと思います。
さて、批判する、とは、批べて判断することです。並べ比べ、明らかに判ることを言うなり言わないなりすることです。それでおそらく、今のこの情報の時代においては、感覚的に比べることの苦しみと、言葉によって言われることの痛みが、批判という行為を社会的に忌避しているように思います。それでは、なんのために批判するのでしょうか。これについては、まず、なぜ批判されるのかを考えてみます。
例えば、男性が女性と不倫したとします。ここでは、女性に欲がなく、男性によって強いられたと想定します。この場合、男性が批判されます。なぜ、男性は批判され、女性は批判されないのでしょうか。これには単純な回答が理性的であろうかと思います。つまり、男性が欲情しなければ、そもそも不倫は顕在化しなかったと考えるのが自然だからです。要するに、男性が欲情を制御できなかった過失を、批判しているのです。ここでわかるのは、制御の常態とは均衡であるということです。均衡を保つために、常に制御するのです。要するに、批判とは、制御が不能であったときに、それを均衡へ持っていく、あるいは戻すために、人は批判するのです。
では、なぜ人はわざわざ批判するのでしょうか。人は、ひとりで存在していません。必ず複数人でしか存在できません。単為生殖ではないのです。それゆえ、身近に制御困難な人が存在していたら、どう思うでしょうか。不安でしょう。自分の身に危険が及ぶ、自分も制御困難になるかもしれない、自分は制御できても、周りの誰かが影響されて制御困難に陥るかもしれない。要するに、秩序は制御によって維持されるために、制御不能な存在を、制御可能にしようと考えるのです。そして、制御不能と認めた存在には、自己制御を期待するのが妥当だと判断するのです。この判断が、批判の実質なのです。
均衡を崩されている人にとって、自己制御は甚く困難な事業に見えます。制御の方法を意識しても、知っていたわけでもなかったろうし、新しい崩され方の場合、具体的な制御方法をまだ誰も言語にしていないこともあります。その場合、誰かが知恵を批判の形式で提供する時、時に先鋭化した、あるいは弱く目立たない様相で、表れがちです。今は文字にしてそれが短期で拡散する流通機構が普及しているため、どんな様相であっても、等しく文字列となって行き渡ります。それで、批判のうち新奇なものを、怖れすぎる、という事態が起こっています。それが、冒頭に述べた、批判を忌避する風潮です。
ですから、本来は、批判とは、その人の不均衡を均衡に戻してあげるための愛の知恵であり、自分や周りの均衡を保つための広い愛でもあります。その知恵を残すために情報が流通するようになったのですが、その知恵が新規の問題や新奇な表現である場合に、その批判に愛がある、と判断するまでに時間がかかるようにもなりました。制御には整理や抑制と反応など、時間がかかるようになったからです。昔より単純な生活でなくなってきたからこそ、批判を制御に役立てるために多くの余白が必要になってしまったし、むしろ本当は、多くの批判をより必要とするようになっているはずなのです。
批判とは、教え合いの一部であるどころか、その根幹と言っても良いでしょう。多くの批判がなされていた頃は、社会の進歩も早く、発展も爆発的でした。現在は、批判が少なく抑えられ、楽しく平和に穏やかに生きることが好まれています。しかし、自堕落になりがちであれば、人の人生を考えて、批判してあげるべきで、批判を受け入れるべきです。そうでないと、その人の生活は良い人生にならないでしょうから。人は思いの外、均衡する範囲が狭く生きています。異なる概念や世界を知らないまま気付かないことが本当に多いからです。自分がこれと思うことについて、そうでない考え方もある、と自然に考えられる人は、自然と人から批判されることをかわして生きられます。どこまでも均衡を広げていける人が、長く栄える人であるのです。