よく,世界をすべて説明する哲学を書き終えた人が,その哲学を捨て去ったり,数学の大きな問題を証明した人が,その後しばらく数学から離れてしまうことがありますが,それはなぜでしょうか.哲学や数学では,抽象的な言語を使って,具体的な人や世界を説明します.人や世界を説明するのは,言葉を使う本人です.では,もし世界のすべてを抽象的な言葉で説明しきれたとしたら,本人はどこにどのように存在するのでしょうか.きっと想像に難くないと思いますが,具体的経験に乏しいと,自分が消え去り,ややもすれば死んでしまう人もあるでしょう.
それまで抽象的思考の世界で満足していた人が,いざ大きな問題に取り組み始めると,いろいろな本や作品に触れ始めますが,そこで感じるものがないと,その問題は解けないばかりでなく,解かない方が良いと思います.自分固有の存在を確実に残しておいてからでないと,解けるとしても解き切ってはいけないのです.ですから,大きな問題に挑む人は,ほとんど必ず,その問題のほかや次の問題意識,別の興味関心や創作意欲を持っているものです.理論には実践が伴うべき,というのは,特に理論の提唱者には,こういった意義があるのです.
すべてを説明することなど,できそうにないと考えるのは,おそらく壮年期の人にとって自然な発想です.なにしろ,すべてを悟ってしまったら,もはや考えることができないのですから,存在することができようもなくなるでしょう.仏陀は座って動けなくなりましたし,イエスも十字架上でむしろ安らいでいました.彼らは神の属性を持ちますが,人は存在する限り考えられるのですから,具体的体験を補給すれば,むしろ以前より活発に,くっきりはっきりと,より正確に,自分の組み上げた言語を使って,さらに自分なりの説明なり創作ができるようになるのです.
若い人でも,考えすぎる人がいます.親や先生から,考えすぎずに体験しなさい,と諭されるでしょう.これは本心からの思いやりです.考えてばかりいては,考えが完成した後であっても,さらに考えるだけでは生きることができなくなってしまうだろうからです.考えに考えたことで有名な人の人生をウィキペディアでも調べてみると,皆必ず,考えたこと以外の趣味や生活行動や作品を残しています.もちろんそれは考え得た思想に基づくものであるのですが,その思想から生まれた生活は,実に多様な様相を呈すものであろうと思います.
もし自分でよく考えないで暮らしている人がいるとすれば,人の考えを借りて使っているだけですから,どんなに調べてもその人と同じ生活ができるだけで,コピーになれたら完成します.しかし,何も自分で考えなかったので,その人の考え方がなければ,その人も自分が存在しているとは思えないでしょう.あるいは,自分はなんのために存在しているのか,本心ではわからないままなのではないでしょうか.
このように,体験するだけで考えなければ,存在の意味がわからないままですし,考えてばかりで生活しても,結局,存在する目的も消えてしまうのです.よって,人生の経験には,思考も体験も必要なのです.そして,それらが結びつき,絡み合い,一筋に紡がれるとき,経験は織物として姿を見せ始めるのです.一度,紡ぐ方法を編み出したら,その後の体験と思考は,多様な柄となって残るのです.
自分の存在を賭けて,難問に挑むのも,一つの生き方です.しかし,達成した暁に死が待っているのも,悲しい人生ではないでしょうか.せっかく生まれて生きられるのですから,解いた答えでさまざまなものを作って残したほうが,その解答に彩りがつき,華を添えることができるのではないかと,わたしは願うのです.